中華民国の民族政策(1)

政治学者 殿岡昭郎

 満州族が立てた清朝の基本的原理が多元主義で、その民族政策は各民族の自治を容認するものであった。これに対し中華民国の民族政策は漢民族に収斂する一元主義で、少数民族の自治は否定されざるをえなかった。これは辛亥革命後の中国が国家の統一と近代国民国家の建設を至上命令としていたためであるが、民族自治を否定し漢民族化を要求する点において、中国共産党が主導した中華人民共和国と変わることはなかった。

 中華民国および中国国民党の創始者であり、その理論的基礎をなす「三民主義」の提唱者であった孫文の国内民族政策は、当初はごく曖昧であった。三民主義が民族主義、民権主義、民生主義を内容としていることは周知のとおりであるが、その民族主義とは、中国人の民族主義によって外国帝国主義を駆逐し、中国の国権を回復し独立を達成するとの主張であって、漢民族と少数民族との関係についての論及はない。新国家建設独立を急ぐ孫文にとっては、民族の統一は当然のことであったためと思われる。わずかに「國民政府建国大綱」中に、「國内ノ弱小民族ニ對シテハ、政府ハ之ヲ扶植シ、之ヲシテ自決自治スルヲ得セシム」とあるが、この余りに抽象的な文言に格別の意味は感じられない。

 辛亥革命が始まり、三民主義を現実に適応するに及んで、孫文の国内民族政策は「五族協和」のかたちで唱えられることとなる。

 「漢満蒙回蔵ノ五大種族中、従来ハ満族ノミ獨リ優勝ノ地位ヲ占メ、無上ノ権力ヲ握ツテ他ノ四族ヲ壓迫シ、満族ハ主人デアリ、他ノ四族ハ皆奴隷デアッテ、種族ノ不平等ハ極點ニ達シテヰタノデアル。…今既ニ五族一家トナリ、平等ノ地位ニ立ツタノデアルカラ、自然種族不平等ノ問題ハ解決シ、政治的不平等モ同時ニ解決サレ、コノ點永久ニ紛争ヲ起ス理由ハ存在シナイ譯デアル。今後五大民族ハ同心協力シ、共ニ国家ノ発展ヲ策シテ、中国ヲ世界第一ノ文明大国トシナケレバナラナイ。之レ我ガ五大民族共同ノ大責任デアル」(「五族聨合ノ効力」民國元年(一九一二年)九月三日五族合進會、西北協進會ノ席上ニテ)。

  しかし中華民国の建国作業が具体化に進展するに従い、五族協和の掛け声だけでは問題が解決しないことが明らかになる。民国十年頃に行なわれた講演「三民主義ノ具対體的方策」中では、孫文の大漢民族主義、漢民族を中心とした中国民族主義の形成、少数民族の漢民族化がはっきり主張されてくる。

 「何ガ故ニ、民族主義ハ未ダ完全ニ目的ヲ達シナイト云フノカ。 …漢民族復活後、ソノ内部ニ在ツタ世襲的官僚ヤ、頑固ナ舊黨、復辟ヲ計ル宗社黨等ガ一斎ニ口ヲ揃ヘテ『五族協和』ヲ叫ンダガ、焉ンゾ知ラン、根本的錯誤ガ其處ニ存在シテヰタ。即チ五族ノ人口ヲ調査スルト、西蔵人ハ四五萬ニ過ギズ、蒙古人ハ百萬ニ満タズ、満州人ハ僅カニ数百萬デアリ、回教徒ハ多數アルケレドモ、ソノ大部分ハ漢人デアル。…カカル多数ノ民族ヲ以テ、ナホ眞個ノ獨立ナシ、完全ナル漢民族ノ国家ヲ組織シ得ヌノハ、實ニ我ガ漢民族ノ耻辱トシテコレヨリ大ナルハナイ。… 本黨(中國國民党)ハ今後ナホ民族主義ニ就き努力スルヲ要シ、必ズ、満蒙回蔵ヲ我ガ漢民族ニ同化セシメ一ノ大民族国家ヲ形成セネバナラヌ事ヲ知リウル」。
孫文の大漢民族主義の主張は、融合統一されたアメリカ国民と漢民族に同化した大中国民族とが、太平洋を挟んで相対する構図をまで描いている。

 「我等ハ今日中国ノ民族主義ヲ講ズルニ當リ、五族ノ民族主義ハ之ヲ包含シ得ナイ。當然ソレハ漢民族ノ民族主義ヲ講ズベキデアル。…單ニ漢民族ノ民族主義ノミヲ講ズレバ満蒙回蔵四族人ノ不満ヲ招クト言フ人モアラウ。余ハ此ノ一事ニ到ツテハ、顧慮スル必要ハナイト思フ。…漢民族ヲ中心トナシ、満蒙回蔵四族ヲ全部我等ニ同化セシメルト共ニ、彼等四族ニ譲歩セシメテ我等ニ加入セシメ、建国ノ機会ニハ…一個ノ中華民族ヲ形成シ、一ノ民族国家ヲ組織シ、米国ト東西両半球ニ在ツテ、二個ノ大民族主義的国家ヲナシ相照映スルニアル」。

 孫文は近代中国「建国の父」として国民党と共産党の双方から最大の尊崇を集めているが、孫文が方向付けた政策が残した負の遺産も否定できない。第一次国共合作におけるソ連人顧問による国民党の改組と単一政党制の採用は後に国民党の独裁をもたらし、辺境地区の直接掌握と少数民族の漢民族化の試みは共産中国による民族消滅政策として引き継がれた。後進国開発のための独裁政治を「開発独裁制」と呼ぶのに倣うなら、孫文および蒋介石指導下の国民党は中国の統一、独立、民主化、近代化を推し進めるための半独裁政治であった。

  国民党は一九二四年の第一次国共合作に際して第一回党大会を開き、大会宣言の中でその民族政策を明らかにした。
先ず「国民党の主義」中に「一、民族主義」と題して原則を述べ、「国民党の民族主義には両面の意義がある。ひとつは中国民族自身が解放を求めていること、ふたつは中国領土内の各民族が一律平等であるということである」と述べ、その上で「第二の面」として、「辛亥(革命)で満州の専制政策が余すところなく粉砕されて以後は、国内の諸民族は当然平等な結合を獲得すべきである。国民党の民族主義が要求するところも実はここにあるのである。しかしながら不幸にして、中国の政府は専制の落とし子・軍閥の巣くう所となり、中国の往時の帝国主義は再びその勢力を盛り返すに至り、ここに国内諸民族間に不安動揺の兆しが現われ、ついに少数民族は国民党の主張には誠意があるかどうかの疑惑をもつに至った。…今後国民党が民族主義を貫徹せんとする場合には、国内諸民族の諒解を得なければならず、…漸次諸民族と組織的に提携しかつ民族問題を具体的に解決する各種の方法を探究しなければならない。ここに国民党は、中国国内の各民族の自決権を承認し、帝国主義と軍閥に反対する革命が勝利を得た後、自由に統一された(各民族が自由に連合した)中華民国を組織すべきことを敢えて誠実に宣言する」とうたった。この文章には少数民族を漢民族化するとの語句はない。あるべき正しい国内民族政策の原則というべきだが、この変更には辛亥革命以来の孫文の民族政策をめぐる苦い経験が滲んでいるように思われる。しかし孫文の死後(一九二五年三月)、少数民族を漢民族化しようとする思想と政策は蒋介石によって無修正で引き継がれることになった。

 中国国民党と中国共産党の闘争と連合の複雑な関係は、とくに共産党軍が江西省・瑞金から貴州省、雲南省、四川省を経て陝西省の延安までの一万二千キロに及ぶ長征(一九三四~三六年)を行なって以来、とくに重要性を帯びることになった。これらの経路にあたった辺境地方は、回族、チベット族、蒙古族などが多く居住し、歴史的に漢民族との確執が存在したからである。共産党がこれら地域で虚偽を交えた宣撫活動で少数民族の支持を取り付けようとし、また憲法草案その他で少数民族重視の姿勢を演出したたのに対し、奥地にまで行政機能が届かない国民政府は、この問題を辺境に蟠踞する国民政府系の軍閥の自由裁量に任せた。この政策の差異は、辺境の少数民族の支持を多少とも当てにできる共産党軍に戦略的優位をもたらすことにもなった。
日支事変の開始(一九三七年)にともない、国民党はナショナリズム高揚の立場から、「国族」、「宗族」の概念で諸民族の統一を理論付けようとした。蒋介石は著書『中国の命運』(一九四三年)で、次のように述べている。

「中華民族はその宗族・支族の不断の融和によって人口も次第に増え強大となった。…中華民族は多数の宗族が融和してなったもので、…もと一個の種類、一個の体系の分支で…各その地理環境の差異によって異なる文化をもち、文化の不同から族姓の区別ができたのである。五千年来、彼等相互間に接触の機会が多く、往復運動が繁かったので、不断に融和して一個の民族となった。しかしその融和の動力は文化であって武力ではなく、融和の方法は同化であって征服ではなかった。…中国五千年の歴史は、ただちに各宗族運命共同の記録であり…各宗族が融和して中華民族となり、…共同で防衛して、中国悠久の歴史を構成するものである。…要するに、我等の各宗族は同じ一個の民族であり、かつ一個の体系の一種族でもあり、ゆえに我が中国の全民族が存亡を共にし栄辱を同じくする歴史的運命にはおのずからその内在的因素があって、密接なる連鎖となっているのである。五族の名称があるのは、決して人種・血統の不同によるのではなく、宗教及び地理的環境の差異から来ている。略言すれば、我が中国の五族の区分は、地域的・宗教的なもので、種族的・血統の関係によるものではない」。

  蒋介石はまた、中華民国の領域を「民族生存の要求するところ、民族文化のつながっているところをもって界限とする」として、具体的には「台湾、澎湖、東北四省、内外蒙古、新疆、西蔵」を「民族生存保衛の要塞」と記している。

 しかし蒋介石の、中国の諸民族は同根、同源であり、すでに中国民族として融合しているとの宗族・支族論は、歴史的、科学的根拠に欠け、固有の文化と社会的統合を保って生存してきた諸民族の受け入れるところではなかった。抗日戦争で追い詰められた蒋介石・国民党が、孫文の大漢民族主義と同化論を反復強調したものである。  

2005年2月28日 載