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東トルキスタン共和国憲法発布式典に参加して
政治学者 殿岡昭郎
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東トルキスタン共和国は地図上に記され、国際的に承認された国家ではない。その主張する国土は中華人民共和国の新疆ウイグル自治区そのもの、国民はウイグル族、カザフ族、キルギル族などトルコ系のいわゆる少数民族を中心とした約一千万人、そして政府は昨年(二〇〇四年)九月十四日にアメリカのワシントンDCに成立した亡命政府で、つまり東トルキスタン共和国は中国の一部からの独立をめざす国家である。
私は三年ほど前から「東トルキスタン情報センター」のホームページを見るようになり、とくに二年前からは日本語ページを担当する「ウイグル太郎」君とメールを交換するようになって、今回、彼の勧めでワシントンに出かけることになった。共産中国からの独立を目指して戦う人たちを見たい、激励したいとの気持からであった。
十一月十九日(金)朝、ワシントンのダレス空港に私たちを待っていたのは、「九・一一」以後に厳重になった入国審査だった。しかし顔写真を撮影され、指紋を採られだけで、入国目的を「東トルキスタン亡命政府の招待で憲法発布式典に参加する」と正直に申告しても、格別の追及はなかった。東トルキスタンを〝テロリズム〟と同一視するような態度は入国審査官からは感じられなかった。
税関審査を終え人気の少ない早朝の空港ロビーに出るや否や、「ミスター・トノオカ」のプラカードをもったトルコ系の男が歩み寄ってきた。予想していた出迎えなのだが、これが亡命政府総理大臣であるアンワル・ユスフ・トゥラーニ氏その人であったのには驚いた。親切といえば親切なのだが、ワシントンにおけるウイグル人社会の小ささ、亡命政府の組織力の弱さも感じさせられた。
私たちの宿舎はアンワル氏のアパートから徒歩五分ほどのドライブインで、ここに外国から参加した二十人ほどの東トルキスタン人とともに宿泊した。私たちはアンワル氏のアパートに行き、狭い応接間に収まり、他の参加者に紹介され、テーブルに盛られたトルコ風のスナックを勧められるままに食べた。応接間の壁には一九三三年と一九四四年の二度の、東トルキスタン建国の英雄の写真と、アンワル氏がビル・クリントン大統領と一緒に写った記念写真が掲げられていた。
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翌十一月二十日(土)から憲法発布式典の公式行事が始った。ホワイトハウスからわずか数ブロック離れたワシントンホテルのボールルームを会場に、昼の十時から夜の十一時までの実に十三時間にわたって、二回の食事を挟んで演説と討論と民族文化の紹介が行なわれた。ちょうど留学先の日本からオーストラリアに亡命したウイグル人がいたので、私は用意した英語草稿ではなく、彼の通訳で即席の簡単な挨拶をした。
この会場で多くのウイグル人、カザフ人、モンゴル人と話して面白く思ったのは、日本人の人気が高いこと、その人気の秘密は「敵の敵は味方」ということで、中国政府制作の反日映画の中で中国人を殺戮する日本人は、中国人に弾圧されている彼らにとっては頼もしい味方だということであった。同行した大学院生の佐藤洋君はたまたま武道の居合の心得があったので、ウイグル人の子供から「サムライ」と囃し立てられて、子供の一人が買ってきた模造刀を使って居合の実演をして、やんやの喝采を受けた。
十一月二十一日(日)は会場をシャンティリー地域図書館に移し、憲法草案の最終審議と承認作業が行われた。東トルキスタン共和国は多民族国家で、民族ごとの利益をめぐって激しい論議が戦わせられ、それまでのお祭気分と和気あいあいの雰囲気は吹き飛び、ともにトルコ語を母語とするウイグル語とカザフ語との論戦の激しさは、意味が判らずに見つめる私たちを大いに驚かせた。
重大な対立点の一つは新共和国の国語をめぐってであった。人口の八〇%を占めるウイグル族が公用語はウイグル語だけでよいとするのに対し、二〇%に満たないカザフ族は少なくも第二公用語としてカザフ語を憲法に明記すべきだとの立場を譲らず、結局ウイグル語とカザフ語を国語とすることが決定された。民族間の利害をめぐる対立はしばしば激しい論争となり、飲酒の習慣のないイスラム教信者同士の論争は疲れを知らず、尽きることなく続くのであった。
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十一月二十二日(月)は朝八時から十一時までナショナル・プレスクラブで記者会見が行なわれた。ワシントンDCのナショナルプレスクラブといえば、歴代大統領やアメリカを訪ねる国賓が記者会見をする場所である。重厚なつくりの会見室前の廊下には、ここで会見した世界的名士の写真がところせましと飾られていた。
われわれの経験では記者会見は記者会側の主催で、時間もせいぜい三〇分ほどが常識である。しかし彼らの記者会見は三時間、しかも東トルキスタン亡命政府の主催であった。それでは料金を払って会場を借りただけかというと、そうではないらしい。プレスクラブの理事会は記者会見を認めるかどうかについて厳重な審査を行い、亡命政府はこの審査をパスし、一万一千ドルの費用を支払って記者会見を実現したという。
記者会見室の雛壇の後方には巨大な東トルキスタン共和国の国旗が張られ、正八時に総理大臣のアンワル氏が開会を宣言し、続いて宗教大臣がイスラム教の儀式に則って祈りを捧げ、大統領、副大統領、以下各閣僚が担当の分野について演説をした。外国人として唯一人スピーチをした私は、共産中国の膨張政策によって脅威にさらされる日本人として、また中国政府の並外れた暴力支配によって人権を奪われた東トルキスタンの人々に同情を寄せる人間として、さらに彼らの独立闘争に連帯する日本人として、強い調子で激励の演説をした。
記者会見場には中国人記者も取材に来ていて、中国政府よりの「文匯報」の記者に名刺を求められ、やむなく一枚を手渡した。記者会見翌日の紙面に私の氏名と演説内容の要約が載ったと報せてくれた知人があったが、まだ確認する機会がないままになっている。
記者会見の最後に、参加した記者と亡命政府閣僚との間で質疑応答があった。質問はアメリカ政府が亡命政府を承認しているかどうかに集中した。これに対してアンワル首相は、「われわれはアメリカ政府に承認を求めたことはない。またアメリカ政府から何の物質的支援も得ていない。承認されるかどうかでなく、亡命政府が組織され、祖国の人々を代弁する機関がワシントンに設立されたことこそ重大な事実だ」と述べ、今後の活動に注目するよう求めた。数ある東トルキスタン運動の中で、独立を正面から謳い、亡命政府を名乗る最初の組織を立ち上げたアンワル氏の自信を覗かせたものともいえる。
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ワシントンの行事に参加した私は、とくに以下の二点で格別の印象を受けた。
第一は、東トルキスタン亡命政府の設立と憲法発布式典の開催は、かつての私自身のベトナム難民の支援活動と比較して、重大な違いがあった。ワシントンDCに住み、亡命政府の中心人物として政府設立と憲法発布式典を推進したアンワル氏は、「亡命政府設立は違法でないから、誰も妨害しなかったし、妨害できなかった」と単純に言うが、二十五年前にわれわれはベトナム亡命政府をアメリカに設立することはできなかったし、ワシントンでベトナム・ボートピープルを動員した大デモンストレーションを実施した時でも、ナショナル・プレスクラブを記者会見に使うことはできなかった。ということは、共産中国に挑戦する東トルキスタン独立運動に対する、アメリカ政府、ないしはアメリカ社会の暗黙の支持の存在、ないしはその将来の可能性を想像させるのである。
第二に、東トルキスタンの人々と話し合っていくうちに、共産中国の内部には、現政府の弾圧を撥ね退けようとする実に多くの人々が存在しているのだという実感を得た。東トルキスタンだけではない。チベット族の長く激しい抵抗運動も存在した。今は沈静化しているが内モンゴル人民党による独立運動もかつて展開されていたし、北方に隣接してソ連の崩壊にともない民主主義の独立国となった「モンゴル国」があり、両者を打って一丸としようとする「大モンゴル主義運動」も存在する。
また中国共産党およびその政府と対立するのはいわゆる少数民族だけではない。十三億の中国国民の大多数を占める漢族、その大多数の漢族庶民にとっても、さらには中国を取り巻く国家群、台湾、ASEAN諸国、インド、トルコ、モンゴル、そして日本にとって、さらには遠く離れたEU諸国、アメリカにとっても、中華人民共和国は望ましい存在ではない。
かつて日本社会党の浅沼稲次郎委員長は「アメリカは日中共同の敵だ」と発言して世間の顰蹙をかった。しかし私はあえて「中国は少数民族のみならず、大多数の漢民族の敵であり、日本を含む周辺諸国の共通の敵である」と言う。そして中国問題の解決策は既に提出され、その条件は熟しつつあることも指摘しておきたい。解決策とは、台湾の李登輝前総統のいう「中国分割」であり、その条件とは、中国内部で戦いを欲する人々が激増してきていることである。中国は自らの矛盾によって、その存在によって苦しめられてきた巨大な人民の力によって、内部から打ち倒されるのだ。
東トルキスタン情報センター
2005年3月5日 載
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